korisonのブログ

豊洲に住む普通のOLです。

価値観合わせ

マナー意識レベル(=されて嫌だと感じることのレベル)が同じくらいの人が付き合いやすいんだろな、と思う。

 

たとえば、公共の場で大声で話すとか、食べたあと爪楊枝使うかとか。

気にしない人にとっては別にノンストレス(だからやる)なんだろうけど、ほかの人にとってはストレスだったり。

私はお箸の持ち方が変だけど、それが嫌な人は私と一緒にいたらストレスだと思う。

 

そうすると自分の周りは同じマナー意識レベルの人ばかりになると思うけど、それが心地いいのならそれでいいのかな、と思う。

豊洲に住んでいて、周りはかなり均質化されているけど、自分から見て「変な人」がいないというのは楽でしょうがない。

たしかに時々窮屈に感じることもあるけど、マナー意識レベルが違う人と対峙しなければいけないストレスに比べたら全然マシ。(ま、豊洲といえどマナー意識レベルが同じ人ばかりなわけではないけどね、外国人も多いし)

 

学生の時は多様な価値観に触れたいとか理解する自分でいたい、と思ったけど、やはりそれはストレスでしかなかった。

 

特にその、多様性を理解するということも目標の一つに置いて向かったインドで半年生活してた時は、当初、あまりのマナー意識レベルの差に毎日怒ってた。

そしてそれを怒らなくなったのは、価値観の違うインド人を理解した時というより、私自身の価値観がインド人よりに変わった時だった。

 

つまり、私は少なくともずっと、同じ価値観の人と付き合うのが心地よかった(多分これからもそう)、ということ。

 

そして違う価値観の人と心地よく付き合っていきたいのであれば、それは彼ら自身と同じ価値観に自分がなる他ない、同じマナー意識レベルの土俵に立つしかないということ。

 

多分、マナー意識レベルも価値観も、根本的には自分と同じである人を(少なくとも)私は好み、相容れないときはそうやって環境に応じて自分を変えるのだと思う。

 

ちょうどさっき、清澄白河駅の駅構内を歩いていたら、前を歩いていたおじいさんが小銭を落として、その腹いせかなんかでそのあと横を通った時、反対側に唾を吐いていた。マジでビックリした。

 

この人と付き合っていくには、自分自身がこの人と同じ価値観・マナー意識レベルにならなければいけないわけだ。(まあ、当たり前にその価値はないけど)

 

当時インドにいた私がそうだったように、一緒に生きる相手と価値観・マナー意識レベルが違うのってかなり苦痛で。

想像だけど、このおじいさんに奥さんがいたりしたら、(意識的にか無意識かは知らないけど)このおじいさんと同じようなマナー意識レベル(駅構内に平気で唾を吐くような低俗なマナー意識、あるいはそれをそこまで悪いことと思わない姿勢)になってるんじゃないかなーと思った。

じゃないと、やってけないと思う。

 

価値観合わせは、メンタル面での生存戦略だと思う。

 

こうやって考えると価値観と環境は大いに影響し合うと思うので、「既になりたい自分になったかのように生活する」「一流の価値観をあえて持つ」、みたいなことは、結構言えてるのかも、と思った。