美しいもの
なるべく美しく、綺麗で可愛いものだけ見ていたい
汚いもの、醜いものは見たくない
これは、どうしても本能的な感情だと思うし、なかなか理性でどうこうできない部分だと思う
(特に男性の方がその傾向が強いと思う。)
以前は、美しさよりも知性だと思っていたが、やはり、女性の場合特に美しさが何にも勝る。
知性によって得られるメリットと美しさによって得られるメリット、女性の場合は後者の方が多いと思う。(男性の場合は前者かもだけど)
これに抗おうとは思わない。
私も美しいものだけ見てたいって思うもん。
だから、できる限りの努力をするのみ、だなー。
自称弱者
なかなかこういう場でしか言えないけど。
世間の風潮と自分の周りのライフステージの変化に伴い、自称弱者・自称マイノリティが、周りに増えたなあ、と思う。
私は心の病気だから、できなくて当然…
私は小さい子連れのママなのに、周りが配慮してくれない…
免罪符のように弱者であることを振りかざす。当然のように権利主張をする。
私は〇〇だから、〇〇できなくて当然、周りが〇〇してくれて当然…と。
自分への言い訳とか、他人への押し付けの常套句。
こういう人には大抵、私は〇〇だけど、それを理由にせず〇〇をがんばろう、という発想は残念ながらない。
別に信者じゃないけど、嫌われる勇気とかに載ってるアドラー心理学について、この人たちはどう思うんだろう。(原因によって結果こうなる、という考えではなくその結果がほしいから原因を自ら作っている、という考え。例えば、会社を休みたいからうつ病になる、みたいな)
話戻って。
こういう、ちょっとでも理由にできそうなことがあると、辛いときとかにその理由に甘えていろんなことから逃げだす・やたら権利主張したがるのを見て、やっぱ人間って弱くて狡猾なんだなーって思う。(自分も含めだけど)
別に強制労働させられてるわけでもないし、子供を孕ませられたわけでもないのに。
自分が選んだ道なのに。
人や環境のせいにして、できない理由を探して、ああ、大丈夫かよ、と別の意味で心配になる。
自分が行動する・変えていくって考えがないのかな。
そもそも、みんなどこかで弱者だし、マイノリティだよ。
あなたのはそれが「子連れママ」とか「うつ病」とか分かりやすい形でラベリングされてるだけだよ、別に特別じゃないよ、と言いたい。
でも言えない…
もっと特別な人だってたくさんいるしね。
でもだからって不平不満を言うな、とはもちろん思わない。
でも、「自称弱者とか自称マイノリティだから」だけで努力を怠ったりとか、優遇されたりするような理由には決してならないと思う。
何よりそんな言い訳だらけの人生、つまらないじゃん。
少なくとも私は、そういう不幸自慢みたいなみっともない真似はしたくない。(しないように気をつけてる)
そこからポジティブで生産的な何かが生まれるのか、甚だ謎だしね。
期末
今の会社に入って3年が終わろうとしてる。
前の会社からの転職理由はずばり、成長したかったから。
ザ日本企業な前の会社と違い今の会社は良くも悪くも成果主義。ぬるま湯の環境とは違い、プレッシャーもある中でスキルや能力が磨かれるだろうと思っていた。
しかし、成長とかスキルって、目に見えなくてわかりにくい。それが身についたかどうか自分でもわからない。
明確に身についたのは、マルチタスク処理とかなんとかする力、かな。
ただ、それを転職で言っても大した売りにはならんだろうな。
もう直ぐ社会人7年目になる。
もう直ぐ30歳になる。
焦りを感じる。
やはり、私は何者かにならないと、落ち着かない気がする。
マーケティングに精通しているサラリーマンにはあんまり憧れないけど弁護士医師には憧れる。
多分明確な資格とか肩書きがほしいんだなあ。
女が社会で生きる上で、資格や肩書きはもしかしたら男以上に役立つかもしれない。
基本舐められるからね。(私だけ?笑)
…ここまでで止まってた。
期末終わり、今は平和。
仕事
最近、仕事が忙しい。
そして、私の目的は、働くことではないと感じる。
確かに働くことも楽しい。
でもやっぱりめんどくさい時や辛い時もあるし、ただただ楽しく効率よくお金が稼げたらどんなにいいだろうと思う。
早く美容健康関係の仕事したいなぁ。
暮らすように働きたい。
まずは完全に時間と場所にとらわれない働き方をしたい。
リカバリ前提でいること
完璧主義で失敗したくないから、最初の決断にとても時間がかかる。
ここはこれがいいけどここが気になるとか…百点満点なんてないと言うのは頭ではわかっているんだけど。
矯正歯科選びがまさにどつぼにはまってしまっていて、数年間悩んでるけど全く決められない。(リテーナーまで終わっちゃうくらいの期間…笑)
百数十万と言う大金がかかるから、余計に慎重になってしまう。後戻りとか失敗とかも聞くし。
でも、今日思った。
失敗することはある。それは、いくら慎重に下した決断だったとしても免れえない。
今回のマンション購入だって正解か不正解かわからない。(正解も不正解もないけど)
整形した人のツイッターをなんとなく漁ってて、みんな、うまくいかなくても何度だってトライしてる。それによって真の綺麗に近づいてる。
判断に時間をかければ必ず成功するかというとそうでもない。誰だって間違う。
だから、短い時間の中で自分なりに考えた結論を出すこと、そしてうまくいかなかったときに、そこからどうやってリカバリしていくかを考えることのほうがとても大事なんだ。
それが結果、一番ダメージが少ない方法かも知らないと思った。
少なくとも、失敗を恐れて何もしないよりは100倍マシだ。
最初の一手やその決断で全てが決まるほど世の中は単純じゃない。
私は、リカバリ前提で飛び込む勇気と信頼、ある種の気楽さを持つ必要がある。
じゃないと、「決断しない」という選択による、0点の結果が待ってることもある。(ずっと出っ歯…笑)
誰かと何かを一緒にやるなら、いざとなった時のリカバリを一緒に考えられる人を選んだ方がいいし、今回でいえばそれを親身にやってくれる歯医者さんを選んだ方がいいなと。
健やかなる時も病める時も…ってね。
みんな、調子が良い問題が起きていない時はいい人。当たり前。
でも、そうじゃないとき、リカバリが必要なときに、結構真価が問われる気がする。めんどくさがる人や周りのせいにする人、つきはなす人。
どんなに懸命に決断してもうまくいかないリスクもそこそこあると知った今、リカバリ意志の弱い人は頼りなく感じる。
もちろん決断の時に最大限努力して考えることは大切だけど、決めた後は、それを正解にするための努力だよね。
うまくいかなかったときは、じゃあどうするかを考える。
①決断のスピードと質を上げる
→これまでは、「質」の中の、矯正クオリティばかり気にしてた。けど今後は、「リカバリを一緒にやってくれそうな先生か」、という視点も「質」の一つの大きな要素として考慮したいと思う。
また、質ばかり気にしていつまでも決められないのは結果として全てを手に入れられていないと言う事だから、決断のスピードと言うのも質と同じ位意識したい。
②リカバリを考えて行動する
→後ろは振り返らず前だけ見る
こんな当たり前のことが、どうしてできなかったのだろー。。
自己表現の方法
映画館でスマホを何度かチェックしてたらおじさんに怒鳴られる一件があってから、他人の敵意に敏感になっている。(前から自意識過剰な部分はあるけど)
※意識しだしたせいか、頻発してるようにも思える。委託先の社長が電話の向こうで私への愚痴言ってるのが聞こえたりとか、おじいさんが小銭を落としたのを見られた腹いせに近くでツバ吐いたりとか
で、これらを通して思ったけど、どこにでも、イチャモンをつけたがる輩はいるものだと。
もちろんこちらにも非があることはあるから、日々を丁寧に生きる必要はある。
しかし、それでもイチャモンつけたいやつは、自分の思い通りにならないとなんやかんやどうせ言ってくる。
だから、そんな奴らに対峙するたびショック受けて内省するなんてのは時間の無駄。
まずは鈍感になった方がいいなーと思った。こういうこと言ってくる人もいるよねーそだねー、災難だったねーそだねー、みたいな。
そもそも、たとえ自分に非があろうとも、敵意を出して失礼なことをしてくる人の存在が、私が引きずる・気にするほど価値あるものであるケースがほぼない。そういう人たちって大体、自分にとってそもそも至極どうでもいい存在なんだよね。(大切な人の中でそんなことしてくる人はいないのである)
こうやって事例考えると、イチャモンつけてくるのって全ておじさんやおじいさん。(もちろん大多数のおじさんおじいさんはこんなことするような人ではない)
そういう人は、人に当たらないと、人のせいにしないと生きていけないんだろう。そしてそのやり方も、感情をぶちまけることでしかできないのだろう。
ま、一種の世間に向けた自分の存在価値・プライドの表現なんだろうね。
その歳になって(だからこそかもしれないが)そんな手段でしか自分を表現できないなんて、なんだか同情してしまう。
そういう大人にはなりたくないし、周りにもなってほしくないな。
価値観合わせ
マナー意識レベル(=されて嫌だと感じることのレベル)が同じくらいの人が付き合いやすいんだろな、と思う。
たとえば、公共の場で大声で話すとか、食べたあと爪楊枝使うかとか。
気にしない人にとっては別にノンストレス(だからやる)なんだろうけど、ほかの人にとってはストレスだったり。
私はお箸の持ち方が変だけど、それが嫌な人は私と一緒にいたらストレスだと思う。
そうすると自分の周りは同じマナー意識レベルの人ばかりになると思うけど、それが心地いいのならそれでいいのかな、と思う。
今豊洲に住んでいて、周りはかなり均質化されているけど、自分から見て「変な人」がいないというのは楽でしょうがない。
たしかに時々窮屈に感じることもあるけど、マナー意識レベルが違う人と対峙しなければいけないストレスに比べたら全然マシ。(ま、豊洲といえどマナー意識レベルが同じ人ばかりなわけではないけどね、外国人も多いし)
学生の時は多様な価値観に触れたいとか理解する自分でいたい、と思ったけど、やはりそれはストレスでしかなかった。
特にその、多様性を理解するということも目標の一つに置いて向かったインドで半年生活してた時は、当初、あまりのマナー意識レベルの差に毎日怒ってた。
そしてそれを怒らなくなったのは、価値観の違うインド人を理解した時というより、私自身の価値観がインド人よりに変わった時だった。
つまり、私は少なくともずっと、同じ価値観の人と付き合うのが心地よかった(多分これからもそう)、ということ。
そして違う価値観の人と心地よく付き合っていきたいのであれば、それは彼ら自身と同じ価値観に自分がなる他ない、同じマナー意識レベルの土俵に立つしかないということ。
多分、マナー意識レベルも価値観も、根本的には自分と同じである人を(少なくとも)私は好み、相容れないときはそうやって環境に応じて自分を変えるのだと思う。
ちょうどさっき、清澄白河駅の駅構内を歩いていたら、前を歩いていたおじいさんが小銭を落として、その腹いせかなんかでそのあと横を通った時、反対側に唾を吐いていた。マジでビックリした。
この人と付き合っていくには、自分自身がこの人と同じ価値観・マナー意識レベルにならなければいけないわけだ。(まあ、当たり前にその価値はないけど)
当時インドにいた私がそうだったように、一緒に生きる相手と価値観・マナー意識レベルが違うのってかなり苦痛で。
想像だけど、このおじいさんに奥さんがいたりしたら、(意識的にか無意識かは知らないけど)このおじいさんと同じようなマナー意識レベル(駅構内に平気で唾を吐くような低俗なマナー意識、あるいはそれをそこまで悪いことと思わない姿勢)になってるんじゃないかなーと思った。
じゃないと、やってけないと思う。
価値観合わせは、メンタル面での生存戦略だと思う。
こうやって考えると価値観と環境は大いに影響し合うと思うので、「既になりたい自分になったかのように生活する」「一流の価値観をあえて持つ」、みたいなことは、結構言えてるのかも、と思った。