korisonのブログ

豊洲に住む普通のOLです。

自己表現の方法

映画館でスマホを何度かチェックしてたらおじさんに怒鳴られる一件があってから、他人の敵意に敏感になっている。(前から自意識過剰な部分はあるけど)

※意識しだしたせいか、頻発してるようにも思える。委託先の社長が電話の向こうで私への愚痴言ってるのが聞こえたりとか、おじいさんが小銭を落としたのを見られた腹いせに近くでツバ吐いたりとか

 

で、これらを通して思ったけど、どこにでも、イチャモンをつけたがる輩はいるものだと。

 

もちろんこちらにも非があることはあるから、日々を丁寧に生きる必要はある。

 

しかし、それでもイチャモンつけたいやつは、自分の思い通りにならないとなんやかんやどうせ言ってくる。

だから、そんな奴らに対峙するたびショック受けて内省するなんてのは時間の無駄。

 

まずは鈍感になった方がいいなーと思った。こういうこと言ってくる人もいるよねーそだねー、災難だったねーそだねー、みたいな。

 

そもそも、たとえ自分に非があろうとも、敵意を出して失礼なことをしてくる人の存在が、私が引きずる・気にするほど価値あるものであるケースがほぼない。そういう人たちって大体、自分にとってそもそも至極どうでもいい存在なんだよね。(大切な人の中でそんなことしてくる人はいないのである)

 

こうやって事例考えると、イチャモンつけてくるのって全ておじさんやおじいさん。(もちろん大多数のおじさんおじいさんはこんなことするような人ではない)

そういう人は、人に当たらないと、人のせいにしないと生きていけないんだろう。そしてそのやり方も、感情をぶちまけることでしかできないのだろう。

ま、一種の世間に向けた自分の存在価値・プライドの表現なんだろうね。

その歳になって(だからこそかもしれないが)そんな手段でしか自分を表現できないなんて、なんだか同情してしまう。

 

 そういう大人にはなりたくないし、周りにもなってほしくないな。

 

 

価値観合わせ

マナー意識レベル(=されて嫌だと感じることのレベル)が同じくらいの人が付き合いやすいんだろな、と思う。

 

たとえば、公共の場で大声で話すとか、食べたあと爪楊枝使うかとか。

気にしない人にとっては別にノンストレス(だからやる)なんだろうけど、ほかの人にとってはストレスだったり。

私はお箸の持ち方が変だけど、それが嫌な人は私と一緒にいたらストレスだと思う。

 

そうすると自分の周りは同じマナー意識レベルの人ばかりになると思うけど、それが心地いいのならそれでいいのかな、と思う。

豊洲に住んでいて、周りはかなり均質化されているけど、自分から見て「変な人」がいないというのは楽でしょうがない。

たしかに時々窮屈に感じることもあるけど、マナー意識レベルが違う人と対峙しなければいけないストレスに比べたら全然マシ。(ま、豊洲といえどマナー意識レベルが同じ人ばかりなわけではないけどね、外国人も多いし)

 

学生の時は多様な価値観に触れたいとか理解する自分でいたい、と思ったけど、やはりそれはストレスでしかなかった。

 

特にその、多様性を理解するということも目標の一つに置いて向かったインドで半年生活してた時は、当初、あまりのマナー意識レベルの差に毎日怒ってた。

そしてそれを怒らなくなったのは、価値観の違うインド人を理解した時というより、私自身の価値観がインド人よりに変わった時だった。

 

つまり、私は少なくともずっと、同じ価値観の人と付き合うのが心地よかった(多分これからもそう)、ということ。

 

そして違う価値観の人と心地よく付き合っていきたいのであれば、それは彼ら自身と同じ価値観に自分がなる他ない、同じマナー意識レベルの土俵に立つしかないということ。

 

多分、マナー意識レベルも価値観も、根本的には自分と同じである人を(少なくとも)私は好み、相容れないときはそうやって環境に応じて自分を変えるのだと思う。

 

ちょうどさっき、清澄白河駅の駅構内を歩いていたら、前を歩いていたおじいさんが小銭を落として、その腹いせかなんかでそのあと横を通った時、反対側に唾を吐いていた。マジでビックリした。

 

この人と付き合っていくには、自分自身がこの人と同じ価値観・マナー意識レベルにならなければいけないわけだ。(まあ、当たり前にその価値はないけど)

 

当時インドにいた私がそうだったように、一緒に生きる相手と価値観・マナー意識レベルが違うのってかなり苦痛で。

想像だけど、このおじいさんに奥さんがいたりしたら、(意識的にか無意識かは知らないけど)このおじいさんと同じようなマナー意識レベル(駅構内に平気で唾を吐くような低俗なマナー意識、あるいはそれをそこまで悪いことと思わない姿勢)になってるんじゃないかなーと思った。

じゃないと、やってけないと思う。

 

価値観合わせは、メンタル面での生存戦略だと思う。

 

こうやって考えると価値観と環境は大いに影響し合うと思うので、「既になりたい自分になったかのように生活する」「一流の価値観をあえて持つ」、みたいなことは、結構言えてるのかも、と思った。

カイゼン

前の記事と少しかぶるが、

小さな負への対処をしていること自体で満足感を得ることが多い

小さなカイゼンを続けていることで、前進しているという達成感みたいなものを感じる

 

そのカイゼン自体が本当に課題解決になっているかどうかは二の次になってることもある、かもしれない

それよりも、「頑張っている自分」に満足し評価しているところもある

 

自己満足ともとられかねないし、もしかしたら本質的ではないし、それではドラスティックな変化は望めないのかもしれないが、それが日々のモチベーションや希望につながることも多々あるのだよね。

 

要はバランスだな。

本質に向き合うことも大切だし、日々の自分への機嫌取りも大切。

 

どれ、帰るか。

花粉症ではないはずだけど、目が潤む。初期症状?

泳いでいないと

常に、前進している意識がないと落ち着かない

ありのままの頑張らない自分に自信が持てない

今の自分に満足したことなんてない

未来は今より必ず良くなってるとただ信じてる

これが理想が高すぎるということなのだろうか

嫌いな人

①暴力を振るう人

②ものを投げる人

③怒鳴る人

モラハラする人

 

①②は論外だけど、

③④もまあ無理

 

特に③は本当に私は苦手で、

感情的に力でねじ伏せようとするという意味では①②とかと同じなのに、平気で怒鳴るおじさんとかいるよね。まじ無理。

どんな理由があろうと暴力がNGであるのと同じように怒鳴るのもNGだと思う。

自分の程度の低さ、怒鳴ることでしか相手に働きかけられない情けなさを露呈してるのに気づかないのかな。

 

感情的な男って本当に苦手だ…

自分の人間関係からはなるべく排除したい。

 

この前公共の場で急に怒鳴られて、反省もしたが、それ以上に、そういう風に瞬間湯沸かし器的な人が周りにいない自分の人間関係や周りの環境に本当に感謝した。(こちらに何か非があったら冷静に話してくれる、まあそれが普通だけど)

 

もっと感謝して生きよう。

 

 

 

 

敵意を向けられた時の対処法

【敵意発生時】

①自分のしたことが謝るべきことなのか判断する

②客観的に見て謝るべき場合(ルール違反など)は謝る。謝るようなことではない(その人の反応の問題)場合は別に謝る必要なし。ただの自然災害と思うようにすること。

 

【対処後】

③起きた事実と自分に沸き起こった感情反応(恐れ、反省など)を分けて整理する。感情、推測を過大評価して負の感情を持ちすぎない。

④相手の向けた敵意が至極真っ当であると思わない場合(怒鳴られた、汚い言葉など)→自然災害にあつたと思うようにする

相手の向けた敵意が、そのやり方含めまさに真っ当であると思う場合→反省する

私なりの決断の方法

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①まずは理想を描く
…マンションであれば自然がたくさん、仕事であれば美容関係、書くこと、海外、など
⬇️
②理想を叶えるための選択肢を出し尽くす
…本当に今回の選択肢しかないのか?そう思い込んで自分を追い詰めてるだけではないか?ということを慎重に考える。
⬇️
③それぞれの選択肢のメリデメを書き出してシビアに比較する。

…特に感情的になってしまって論理的なところ(損得の部分とか)を軽視しがちだけど、きちんとその辺り冷静にシビアに見る。
⬇️

④それでも迷うなら
→稼げる、将来的にいろんな可能性を残せそうな方を選ぶ
→守りではなくワクワクする方、チャレンジングな方、未知・新しい方、新たな一歩になる方を選ぶ
→やらない、ではなくやる、を選ぶ

 

・迷ってる状態の時の決断は避けるべき。先延ばしにできるならそうする。
・人のせいにしがちだからなるべく人に相談せず自分に向き合う。

 

これまでの失敗決断を見るに、判断ミスの最終要因は④なのだが、私はそもそも①がしっかりできてないからミスを招きがちと思われる。

もっと自分や理想に向き合い、軸を決めて行きたい。

 

こういいつつも、本当にその決断が合ってたか間違っていたかなんてわからない。

自分の決断を正解にして行く、という構えは大前提として必要。

しかし、その構えをするためには、「自分が考えた上で出した結論」であることが超大事で。

誰かに言われたことを理由に下した決断や、迷って迷って、えいやっ!で決めてしまった決断って、その場の感情の勢いだけで、覚悟やモチベーションが伴いにくかったりする。

 

だから、上記指針で、決断をした後の私が前向きにその決断を正解にする努力ができるように、その前段階の決断のところで、自分なりの納得できる決断をしておいてあげたい。